稲付城跡 稲付(いなつけ) 東京都指定文化史跡 北区赤羽西1−21−17 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。 昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558〜1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。 また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。 道灌の死後、この城は孫の資高(すけたか)が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資(やすすけ)は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。 明暦元年(1655)に道灌の子孫資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。 (平成13年3月 北区教育委員会) (※注) 稲付(いなつけ)と読みます。住所変更で赤羽西になってしまい、今では稲付中学校の名前 くらいしか残っていない(私の母校です)。 |