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父の跡継ぎ落語家に・・・(リストラ転職・成功物語) (夕刊フジ・2002年6月17日)
 勤めていた会社が傾き、一念発起で落語家に転身。ところが師匠をしくじって再び失業。すると今度は「おれが預かろう」と別の師匠が手を差し伸べくれた。”捨てる神”と”拾う神”のはざまをさまよう男に今、大きな高座が用意されようとしている。
 高橋秀帆さん(33)は東京生まれ。高校を中退し、運送会社に勤務した。忙しくて高収入。40方円を超える給料は有り難いが、その金をつかう時間がない。そこで二年後、ベビー用品のレンタル会社に転職する。
 社員約30人の中小企業。給料は半減したが、「こう見えて子ども好きなんです。だから、入社できたときはうれしかった」と当時を振り返る。ところが、その喜びは長続きしなかった。
 入社後一年ほどたったある日、在庫管理を任されていた高橋さんに、思わぬ指示が下る。
 「たとえ在庫が切れても発注は見合わせろ」 在庫を切らさないための在庫管理なのに、なぜそんな指示が出るのか。おかしなことは他にもあった。経理部長は席を温める暇もなく銀行通い。東南アジアからの不法滞在者が何人もアルバイターとして出入りするようになっていた。
 「冬の寒い日にストープの灯油さえ買ってくれない。頭にきて古いベビーベッドをたたき壊して、倉庫の前でたき火してやりましたよ(笑)」
 さすがに経営が火の車なのを肌身に感じた高橋さんは自ら会社を去る。その時点で、はなし家になる決心はできていた。
 じつは、高橋さんの父は、三代目三遊学円之助。通好みのはなし家だった。高橋さんが高校生のころに亡くなったが、高橋さんにもはなし家の血は流れている。
 「おやじから直接言われたことはありませんが、やっぱりはなし家になってほしかったようですね」
 柳家小三治師匠の門をたたき、晴れてはなし家となった高橋さんは、直後に、辞めた会社がつぶれたことを知る。とりあえず滑り込みセーフだ。しかし、これで物語は終わらない。洒での失敗が重なった高橋さん。入門二年で師匠からクビを宣告される。
 「お前は大きなしくじりはない。言ってみれば”あわせ技一本”だ」
 破門された高橋さんは、父の弟弟子でもある三遊亭円橘師匠に報告に行った。すると、円橘師匠は、「修行する気があるならウチで引き取ってやる」と有り難いお言葉。”拾う神”に頭を下げて、再入門を果たした。
 しかし、円橘師匠が言った修行とは、落語のそれではなかった。師匠の知り合いが経営する建設会社で大工の見習いをしろと言うのだ。力仕事などしたことのない優男には酷な話だが、それでもはなし家でいられるならと、一年半にわたって現場通いを続けた。
 その後、高橋さんのやる気が認めらね、ようやくはなし家としての仕事が与えられるようになる。二ツ目に昇進して、付いた名前は四代目三遊亭円之助。所属する円楽一門でも際立って大きな高座名だ。
 「高座名なんて識別記号。こだわりはありません。でもおやじが喜んでくれるなら、それはそれでうれしいですね」
 四代目円之助は平成十七年に真打昇進する。そしてその時には、父の師匠の高座名「四代目三遊亭小円朝」の大名跡襲名が用意されている。
    (長田昭二)



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