安藤広重 川口のわたし善光寺
川口のわたし善光寺
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本堂弘法大師像タイ国の釈迦像・涅槃像
広重「川口の渡し善光寺」|現代の渡し場跡
江戸名所図会本堂内宝篋印塔
広重「江戸百景めぐり」に登場する「川口のわたし善光寺」は、荒川を挟んで赤羽側から向こう岸を望んだ絵として有名です。
  ※「江戸百景めぐり」は浮間図書館にあり。

広重の「江戸百景めぐり」には北区では王子近辺が5枚書かれており、以北となると唯一左の絵の「川口のわたし善光寺」の1枚だけである。広重の絵には筏(いかだ)が描かれているが、昭和20年代でも見られた光景で、荒川の水運を利用して秩父の材木が千住の材木問屋まで運ばれた。
江戸市民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあってこぞって参詣し、とくに本尊の顔が拝める「ご開帳」の日は参詣客が大勢押し掛けてたいそう賑わったという。

絵では、善光寺は上部黄色の四角の左にある、右下の「渡し船」1艘の他はすべて「筏」である。
荒川(現在の新河岸川)の渡船場は新荒川大橋のすぐ上流にありました。今は案内板が立っています(内容は下記に掲載)。



岩淵の渡船場跡   岩渕町41番先
このあたりに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場がありました。江戸時代、ここは川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。
渡船場は、奥州との交流上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また、室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。
江戸時代、ここを通る道は、日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備されました。渡船場も将軍用と一般用に別れており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ六五間(約117m)、幅三間(約5.4m)です。
一般の渡船場は、人用の船と馬用の船一艘ずつ用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めてきましたが、大名の通行などの際、近隣村で現在北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の三ヶ村も勤めることになっていました。また、対岸の河原にある善光寺が、名所として参詣者で賑わうようになり、開帳中は船橋が架けられたほどでした。
渡船場は、明治以降も利用され、明治38年(1905)3月からは常設の船橋が架けられました。しかし交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和3年(1928)9月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割をおえ、船橋は撤去されました。
平成7年3月  東京都北区教育委員会

江戸名所図会
川口の渡し (往古は、こかはぐちといへり)。『義経記』に、九郎御曹子(源義経、1432〜86)奥州より鎌倉に至りたまふといへる条下に、「室の八島をよそに見て、武蔵国足立郡こかはぐちに着きたまふ。御曹子の御勢八十五騎にぞなりにける。板橋にはせ附きて、『兵衛佐殿(源頼朝、1147〜99)は』と問ひたまへば、『おととひ、ここを立たせたまひて候』と申す。武蔵の国府の六所町につきて、『佐殿は』と仰せければ、『おととひ通らせたまひて候。相模の平塚に』とこそ申しける」と云々。按ずるに、渡し場より壱丁ほど南の方の左に府中道と記せる石標あり。これ往古の奥州街道なり。これより板橋にかかり、府中の六所町より玉川を渡りて、相模の平塚へは出でしなり。