密蔵院 川口市大字安行原2008  海寿山満福寺 真言宗智山派 本堂 ≪安行八景≫ 
密蔵院 (川口市)
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地蔵菩薩
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本堂|不動堂大黒天堂見返り地蔵茶筅塚
弘法大師興教大師銭洗い弁天布袋像
境内山門女人講安行桜十六羅漢像
-----------------------------------------九曜星の紋章
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本堂の屋根には北斗七星を象ったという「九曜星」の紋章(写真上)が輝いている。これは関東の英雄・平将門の家紋である。将門は上洛の折りに、自身の守り本尊であった地蔵菩薩像をこの地に奉安した。これが当山の開基であり、寺紋を九曜とする由縁である。この地蔵菩薩像は平安時代藤原期の造立で、総高二尺一寸五分(65センチ)。慈覚大師作と伝えられている。左の写真はお前立ちで、本尊は後ろの扉の中に安置されている。
文明元年(1469)に永海法印によって中興されたと伝えられる。明治初期までは京都醍醐寺無量寿院の末として、本寺の寺格と御朱印十一石、三十八ヶ寺の末寺を有し、川口、浦和、草加、越谷、大宮などの各寺院に影響をもたらした川口市内有数の古刹なり。
平将門の供養塔は本堂裏手の小高いところにある。
また、当院は川口市の桜の名所の一つに入っており安行桜の咲く3月中旬頃は大勢で賑わう。

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平将門供養塔spacer平将門供養塔説明
文明元年(1469年)の創建で、無量寿院末の中本寺である。開山は法印永海で紀州の出身であり、高野山明王院住職の永尊法印に従って出家得度した。この時26歳であった。当時谷古田領原村と称していた現在地に一宇を開き海寿山満福寺密蔵院と号した。その後25ヶ年住職であったが明応元年(1493年)10月16日、60歳で入寂。第2世法印永伝の時、享保3年(1719年)焔焼した。この時永伝と後任住職の契約があった第3世法印永真は高野山に登領していたが、この事のため同4年帰山して住職となり、後に客殿を建立した。第10世法印永実の時、正保元年(1644年)7月4日夜焔焼、同3年3月客殿建立。慶安3年(1651年)再度焔焼。この時本尊東照宮(家康)、台徳院(秀忠)、大猷院(家光)3代より御朱印状(寺領11石)を焼失した。第11世法印永智の時、客殿、本堂、庫裡を建立した。明治19年第30世三池照鳳大僧正(後、成田山新勝寺の住職となった)により島津家江戸屋敷の門を山門として移築したと伝えられている。他方、開山法印永海を中興開山とする説によれば、当寺は平将門の開基と伝えられている。本尊地蔵菩薩は、将門が上洛する途中、守護佛であったのを当寺に残し置いたという。
当寺はかつて、21の末寺を持ち11石の御朱印を下賜された10万石の格式を持った寺であったという。本堂の名を摩尼殿といい、扁額を掲げ、正面にある宮殿に本尊が安置されているが、この宮殿は天保7年(1837年)に茂長甚佐によって奉納されたものである。本尊については先の火災に折、顔と胸部は焔焼をまぬがれ、昭和53年3月、東京国立博物館美術課彫刻室長の佐藤昭夫の鑑定により、顔、胸部を除いた仏体は江戸時代初期に修復されたもので、本体は平安藤原時代の作であると鑑定された。

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