源長寺 川口市赤山1285  浄土宗  周光山勝林院
源長寺(川口市赤山)


【源長寺の由緒と沿革】  (源長寺境内の掲示物より)
当、源長寺は関東郡代・伊奈半十郎忠治が居城に近い赤山の地にあった古寺を再興して伊奈家の菩提寺として創建し、両親の法名から周光山勝林院源長寺と寺号を定め、両親の菩提寺である鴻巣勝願寺の惣蓮社円誉不残上人を特請し、開山として迎えた。ときに元和4年(1618)であった。
二代住職、玉蓮社日誉源貞上人は忠次の三男で寺運の伸展と興隆につとめた。寄進をうけた50石の広大な寺領の外に寺域を整え諸堂をたて寺観を一新して江戸初期から中期にかけて武蔵国では高い格式を誇る寺とし、近隣に数ヶ寺の末寺を持ち、木曽呂の阿弥陀堂もその一つであった。源貞は後に迎えられて壇林勝願寺の六世となり、さらには鎌倉の大本山光明寺三十八世の座に就き、遂には京都の知恩院に晋董した高僧であった。 しかし、広大な寺領をもち権勢を誇り続けてきた源長寺にも漸く濃い翳りが出始めた。大檀那・伊奈氏の十代忠尊のときに失意の退陣を余儀なくされ、代々の所領は没収され赤山の館は解体を強いられて伊奈氏の経済的失調が決定的となった。
この頃から源長寺の斜陽化衰退は始まった。中興源底の建てた諸堂にも朽廃が目立ち営繕の期を迎えても伊奈氏の経済不如意から放任され、大伽藍の維持に困難を生じ段階的に規模を縮小して難局を越えてきた。 そのころ、寺運を回復する器量の住職おらず苦境は深刻化した。江戸中期以降明治にかけて源長寺は重大な時期を迎えたときに二十一世忻誉大念は寺外で没した明治18年(1885)。この頃、鐘楼堂をはじめ寺宝の多くを失い、加えて多くの離檀者があって窮状は加速して源長寺の暗黒時代となった。 広大な寺領も一部の者に次第に蚕食され、境内に隣接した土地を残して多くの寺領を失ってしまった。僅かに残った二町歩余の農地も終戦後の農地解放の政令に従いすべてを手放し、境内墓地の寺域約一町歩(1ha)が残ったに過ぎなかった。
この未曾有の難局に陥っても本尊仏に異常がなかったことは洵に幸いであった。当山に安置する阿弥陀如来は秩父より招来された火難除けの仏様と伝承があり、相好円満の温顔、均整の取れた藤原期定朝様式を忠実に受け継いだ作品と鑑定され、先の伊奈家の頌徳碑(昭和48年指定)に続いて市文化財としての指定(昭和53年)をうけたことはあり難いことであった。
現住廣誉定海、仏縁をもって昭和13年(1938)二十四代の法灯を継いでも当時は十数戸の檀家、正に少祿微檀。僅かに残った茅葺き一棟も十坪余に過ぎず、寺としての外観体裁はなく、辛うじて雨露を凌ぐのみで廣誉が常駐して本尊に給仕するには大きな決意が求められた。廣誉は土地の古老に伝承を聞き古書から盛時を偲びつつ教壇生活を続けて密かに時機の到来を待った。
昭和47年退職入寺した廣誉は寺運の再興、伽藍の再建を発願決意した。 荒蕪地同然の寺域を墓地として造成分譲し広く有縁の檀越を募り大方の効力を得ることを方策として樹てる。 幸いにして機運円熟し仏天の加護をうけて着工し、父祖以来の宿願、本堂、庫裡の新築、境内の植栽整備も同時に進行して昭和63年(1988)5月15日全檀信徒参集して浄土宗三上人の遠忌正当の記念法要に併せ落慶のおつとめが盛大に厳修され住職廣誉の生涯の大吉祥日となり、永年の悲願成就を泉下の諸霊に慶びの報告をした。

本尊の阿弥陀如来 本尊:阿弥陀如来坐像

 秩父より招来された火難除けの仏様と伝承があり、相好円満の温顔、均整の取れた藤原期定朝様式を忠実に受け継いだ作品と鑑定され、木造寄木造で、法量は像高88.5cm、肘張り72.0cm、光背高142.0cmを測ります。背面中央に「聖蓮社冏誉蘆含和尚」の朱字銘が認められます。
先の伊奈家の頌徳碑(昭和48年指定=下に写真あり)に続いて 川口市文化財としての指定(昭和53年)をうけた。
法然上人  写真左は本堂前に立つ法然上人の像。近隣には浄土宗の寺は少ないので法然上人の像も始めて拝見した。
 台座に法然上人の歌がある
   月影のいたらぬ 里はなけれども
   ながむる人の 心にぞ すむ





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涅槃像   釈迦如来像は 誕生像、苦行像、降魔像、説法像、涅槃像に造形化される。その内これは、涅槃像と呼ばれる像です。
 沙羅双樹のもとで,多くの弟子や動物たちの深い悲しみの中,釈迦は身を横たえ80歳で入滅(2月15日・釈迦涅槃会)。この姿を「涅槃像」・「寝釈迦」と呼んでいます。像は頭を北向き、お顔を西向き、横臥する姿勢で右手の手枕をしますが右手の手枕でない涅槃像もあります。この涅槃像の作法を取り入れられたのが死人の北枕です。


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水子地蔵 写真左の水子地蔵は新しい像。
石仏  左の庚申塔は青面金剛立像が踏んでいる邪鬼が珍しい。普通、邪鬼の身体は左向きや右向きに横たわっている像がほとんですが、ここは、真正面を向いた顔の上を踏まれているのです。庚申塔をいっぱい見てきましが初めての形。
銘は正徳6年(1716=享保元年)とあるから、伊奈氏は忠達(ただみち)八代頃の供養塔だ。
真ん中は方誉順西禅定門と年号は承応四年(明暦元年=1655)とある。
右の石仏には上部に地蔵菩薩の銘がある。
板碑
板碑について
  板碑とは板石塔婆のことで、板佛・青石塔婆とよばれる。北海道から九州にかけ全国的に広く分布し、特に関東地方に最も多いが、形・材質には地方差がある。 おこりは、鎌倉時代から室町時代にかけて故人の追善供養であったが、後になると逆修供養として生前に死後の極楽往生を願って農民の間に広まる。上部を三角形にし、表面に梵字・名号・仏像などを彫り、下方に戒名・年号・建立者名などを刻む。とくに光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨の文字が目立つ。 本県の秩父・長瀞付近の青石(緑泥片岩)が利用されていることから青石塔婆の名がある。 ここの板碑は寺の境内や隣接の畑地から出土したもので之を調べることで、当時の人々の生活の様子や考え方を知ることができる。 此の中で最も古いものは、元徳二年(1330=鎌倉時代)の刻みがある。
  平成4年3月 彼岸  二十四世 廣誉


 本堂の裏手にある、左の頌徳碑(しょうとくひ)は下端に現地説明文を掲載。頌徳碑は川口市指定文化財。写真上は伊奈氏の墓所。
川口市指定有形文化財(歴史資料)
伊奈頌徳碑 (しょうとくひ)
                       (昭和48年5月24日指定)
 頌徳碑は、五代忠常が寛文13年(1673)に建立しました。高さは190cm、幅は100cm、表面には32行、1928文字が刻まれています。文章は江戸時代初期の儒学者・林羅山の子である、弘文学史院林道甫によります。
 碑文は、初代忠次から四代忠克までの事績が漢文体で記されており、伊奈氏の嫡祖忠次が清和源氏満快の裔であることから始まります。そして、家康が江戸に進む際、忠次に参河・遠江・駿河三州の水陸のことを監せしめ、富士川を渡ると台風に遭い、今武士を渡すことは兵力を弱めると進言し、数日後、富士川を渡りました。忠次のこの言により、家康は小田原城を攻め落とし、江戸に幕府を開き天下統一を成し遂げました。忠次は度重なる功労のため備前守となり、57歳で病死しました。訃を聞く者、皆これを惜しんだと言います。
 碑文はさらに忠次の子忠政に及び、大阪難波の役に出陣、堤において槍を接し7人を斬ると刻まれています。 さらに忠政の弟に忠治があって良く父の血をくみ、多くの新畝を開き、赤山七千石を賜り。また、忠次の子、忠克は、武蔵70里を開拓、始めて多摩川の水を江戸城に引き入れるなど、「相ついで伝襲」、皆忠治の規式を守る、と伊奈氏について物語られています。
                           川口市教育委員会

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源長寺周辺地図
上の地図は、源長寺と赤山城址の位置関係を書いたもの。赤山城址へ行くには県道161号で植木店「しばみち」のところから入る。車の場合は山王神社の前に駐車場があります。それと、外環道に沿った道にもよく駐車しているのを見ます。

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