静勝寺(江戸名所図会) |
【江戸名所図会】 静勝寺のところに載っている図と文章を写す。 自得山静勝寺(じょうしょうじ) 曹洞宗の禅宗にして稲付にあり。この地は太田道灌(1432~86)間讌(かんえん・清浄)居跡なり。道灌亡ぶるの後は、狐兎のふしどとなりけるを、中頃萍水浮雲の僧あって、このところに草庵を結び、道灌寺と号す。これ当寺の草創なり。その後太田家より当寺を建立ありて、静勝寺と改む。 観音堂(本尊十一面観音は越泰澄(おちたいちょう)の作にして、道灌入道崇尊の霊像なり)。 影堂(道灌入道の木像を置く)。 五葉の松(南の方、畑の中にあり。道灌手植ゑの由、いひ伝ふ)。亀が池(寺の後ろの方にあり。むかし、この池より霊亀出でけるより号とすといふ)。 そもそも太田左衛門太夫資長は(あるいは持資と号す。初めの名は源六郎、世に左金吾称す。薙髪して道灌、また春苑・香月・静勝と号す。永享四年壬子(1432)相州<注:相模国>に産まる)源三位頼政十世の孫 備中守 資清入道道信(1411~92)の子なり。扇谷上杉修理太夫定政(1443~94)に属し、江戸城に住す。父とともに武毅勇烈関東に覆ふ。ゆゑに人唱んで真灌と称す。また城を築くに巧みなり。東国の城多くは道灌の指図にして、築くところなり。長禄元年(1457)武州江戸城を草創し、城中に燕処の室をいとなみ、静勝と名づく。西を含雪といひ、東を泊船と称す。和漢の書を集むること幾千巻といふをしらず。つねにここにあって詩歌をたしむ。よって城北に菅神を勧請し、祠を建つる(いまの御城西、平川天神これなり)。このとき両上杉(扇谷上杉修理太夫定正・山内上杉兵部少輔房顕(1435~1446)権をあらそひ、互ひにこばみ、つひに間計をもって定正に道灌をうたがはしむるによって、定正、人をして道灌を浴室に刺し殺さしむ。時に文明十八年丙午(1486)7月26日、年55歳(相州糟屋洞昌寺に葬る)。死にのぞんで云く、「余を害するは定正亡家の兆なり」と。はたして定正、威衰へ再び振るはず。道灌これより先、寛正年中(1486)上洛す。勅してむさし野の勝景を問はしむ。和歌をもって答へ奉る。 露置かぬ方もありけり夕立の空よりひろきむさし野の原 また平生の眺望をとはしむ。 わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞみる このとき叡感のあまり、御製をたまふ。 むさし野は高萱のみと恩ひしにかかる言葉の花や咲くらむ またあるとき勅して、角田川(すみだがわ)の都鳥をとはしめたまふに、 年ふれどわれまだしらぬ都鳥角田河原に宿はあれども その余の和歌は、家の集に出づるをもつてここに略す。 (以上) (絵中の文字) 懸雲灯 円通閣 潅公祠 梵鯨楼 古城坳 楼靏壕 霊亀池 蟠松岡。 右、当寺の八勝なり。筑波石正倚(せきせいき)の詩あり、これを略す。 上記文章にもある霊亀出たという亀が池は今も存続しており写真を掲載しています。 同じく、道灌手植えの五葉松ですが、図を見た辺りの場所では見当たりません。防火用水のある場所だと思いますので今後も探してみます。 |