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 太田道灌堂 (太田道灌公御影堂)
太田道灌堂
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太田道灌像
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【稲付城跡(城址)・静勝寺 施設案内】
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静勝寺(江戸名所図会)|同石段付近の拡大図
太田道灌堂には道灌の坐像が納められています。道灌の命日7月26日にちなんで26日に開扉されます。
また、命日には近くの商店街も参加した道灌まつりが行われます(写真は下)。
太田道灌(おおたどうかん)は室町時代の武将、江戸城を構築したことで知られ、昔は岩淵5ヶ村(岩淵宿、赤羽、志茂、稲付、袋)を治めていました。同地域の総鎮守として赤羽八幡神社が近くにありますが、そちらとも縁が深い。道灌のことは上記メニューの江戸名所図会に説明があります。
道灌坐像の詳しい説明は北区教育委員会の解説板が立っているので下に写しておきました。

静勝寺案内図
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道灌まつりは静勝寺下の岩槻街道から石段までの間で行われる。金券が発行され、それで金魚すくいなどの遊びやおでん、フランクソーセージ、ポップコーンなど買い物が出来る。

道灌まつり 道灌まつり
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太田道灌挫像 太田道灌挫像    北区赤羽西1−21−17  静勝寺
 正面の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで26日に開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌に当たる享保20年(1735)7月に建立され、厨子は三百五十回忌に当たる天保6年(1835)7月に製作されました。
 太田道灌(1432〜1486)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれていますが、長禄元年(1457)4月に江戸城を築いたことで知られています。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1478)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振りが置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5センチ、構造は檜材の寄せ木造りです。頭部は前後二材矧ぎで魚眼をかん入し、差首としています。体内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺第六世の風全恵薫によって像立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。
 像は、道灌が没してから二百年以上も後に像立されたものでありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で、平成元年 1月に北区の指定有形文化財に指定されました。
   平成8年3月 北区教育委員会
太田道灌とヤマブキ
道灌が鷹狩に出て雨に遭い、蓑を借りようとしたとき、若い女に山吹を差し出され、それが
『七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき』という古歌(『後拾遺集』雑)の意だと後で知り、無学を恥じたという逸話が有名。(静勝寺蔵)

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