八幡神社案内板
 赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和氣命(ぼんだわけのみこと)(応神天皇)、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)。「日本書紀」よれば、応神天皇の父)、息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后。『日本書紀』によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵五ヵ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり(『新篇武藏風土稿』)、現在もその地域の総鎮守となっています。
 創建年代等は不詳ですが、伝説によれば延暦年中(782〜806、平安時代)坂上田村麻呂(758〜811。平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く部門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いて三神を勧請したのに始まり、長徳年中(995〜9、平安時代)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154〜56、平安時代)源頼政が修造を加え、応永(1394〜1428、室町時代)正長(1428〜29、室町時代)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として一貫文の地を寄進し、文明元年(1469、室町時代)太田道灌が社殿を再建したといいます(『岩淵町郷土誌』)。
 これはさておき、ここには太田新六郎康資(やすすけ)(太田道灌の曾孫)の、天文20年(1551、室町時代)寄進状が伝えられており、その文面は、
 岩淵之内赤場根八幡領之事  合壱貫文之所者
 右為社領如前々闕之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を為本無沙  汰に付而は可放取物也、仍而如
 件天文二十年辛亥十二月八日  太田新六郎
             康資  華押
 八幡禰(実字は示ヘン)祇  朝日輿五右衛門殿

となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。
また、『新篇武藏風土稿』に、「赤羽根村・・・・今ハ東叡山及傳通院村内寶幢院八幡社領入會ノ村ナリ」と記されており、慶安二年(1649、江戸時代)に七石余の朱印が付されていること(『岩淵町郷土誌』)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に七石余有していたことも確実といえましょう。
 現在の本殿は昭和6年(1931)改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、これは絵馬堂を兼ね、絵馬が三枚納められています。
 この神社が祀られている台地は、武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の沖積地に、西は八幡谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器(はじき)が発見されており、縄文中期・弥生後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です。(『東京都遺跡地図』東京都教育委員会)。
 この神社より聖美学園敷地(旧陸軍第一師団工兵第一大隊旧舎後)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊舎跡)、およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。
 明治5年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同20年、第一・近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等があいつぎ、赤羽は「陸軍の町」となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦没者の霊も合祀)などは、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。
  昭和54年3月 北区教育委員会
【赤羽八幡神社 施設案内】
神社本殿
社名標柱
北区教育委員会の解説|
境内神社(本殿左配置)
境内神社(本殿右配置)
赤羽八幡宮(江戸名所図会)
宝憧院付近拡大図