清泰寺 さいたま市緑区東浦和5-18-9 天台宗
清泰寺本堂


見性院の墓
庚申塔
武田信玄の息女見性院の墓、元霊廟の扉には三つ葉葵の紋
十三重塔の回りが庚申塔で合計すると349基
六地蔵 案内石柱 写真左の石柱の銘は、
慈覚大師御作
足立坂東第六番目
十一面観音菩薩
とある。
台座には、八番 柳崎
観音院も読める。
左に並んでいるのは庚申塔の石碑。
十一面観音
     十一面観音(本尊)
木造十一面観音立像
 木造十一面観音立像は清泰寺の本尊で、12年に一度の午年にご開帳されます。座高122cmで、台座と円形の光背がつき、左手に水瓶を持っています。寄木造り、彫眼で、古色仕上げですが、両眼などに後世の彩色が施してあります。大きめの変化面を載せた頭部は小さめで、腰を絞った引き締まった体躯と膝まで届く長めの腕を持つ観音像です。
 緊張感のある写実的な表情、バランスの良い体躯、複雑で陰影のある装飾的な衣文構成などに、鎌倉時代後期以来流行した宋風彫刻の特色を顕著に見せる秀作といえます。様式技法的に見て、室町時代前半より以前に東国仏師が制作したものと考えられます。  (さいたま市教育委員会=境内解説板より)
案内図 観音寺(三室堂) 八丁観音寺  →広域案内図

清泰寺  (境内の解説板より)
所在地 さいたま市緑区東浦和5-18-9(さいたま市大字大牧)
  清泰寺は、天台宗の寺で慈了山覚源院といい、平安時代初期の高僧慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)によって開かれたと伝えられている。本尊は十一面観音立像(秘仏)で、江戸時代初期の作とされている(市指定文化財)。
境内に並ぶ351基の庚申塔は、天明3年(1783)と万延元年(1860)に建てられたもので、一括して市指定有形民俗文化財になっている。
  見性院は、穴山梅雪(武田の武将)の妻であったが夫の死後、徳川家康の知遇を得、大牧村を采地として与えられていたが、元和元年(1622)没して清泰寺に葬られた。見性院が養育した二代将軍秀忠の子幸丸(後の会津二十三万石の城主保科肥後守正之)は三代将軍家光を補佐し幕政で活躍した。
  また、本堂須弥壇に安置されている有泉勝長木脾も市指定文化財である。有泉家は勝長の弟五兵衛が大牧村に居住し、子孫累代見性院の墓所に奉仕したと言われている。
  昭和58年3月 さいたま市

清泰寺の文化財
県指定旧跡 見性院(けんしょういん)の墓 昭和36年9月1日指定
  見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻でしたが、梅雪の死後、徳川家康に養われました。そして2代将軍秀忠に男子幸丸が誕生すると、その養育を頼まれ、7才まで育てました。幸丸は、後に信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称しました。正之は高遠から最上へ、そして会津へと移り、二十三万石の大名となり、幕政にも参画しています。
  見性院は元和8年(1622)に没しました。大牧村が所領であったことから、ここ清泰寺に葬られましたが、見性院に受けた恩を忘れなかった正之は、その冥福を祈るため清泰寺に霊廟を建てました。なお、安政5年(1858)建立の現在の墓石は、会津藩により建てられたものです。会津の人々も、名君を育てた見性院を慕っていたことがわかります。

市指定有形民俗文化財
清泰寺の庚申塔   昭和36年3月31日指定
  清泰寺の境内には、垣根のように並ぶ庚申塔349基と、青面金剛像浮き彫りの庚申塔1基、自然石の庚申塔1基があります。一箇所にこれだけの庚申塔がまとまって存在しているのは、非常に珍しいことです。
  349基には、正面に「庚申塔」の文字と寄進者の住所氏名が陰刻されているのみです。しかし、青面金剛像の庚申塔には、右側面に「更新五拾ケ度供養塔」、左側面に「天明三」などの陰刻銘があります。また、自然石の庚申塔には、正面に「三百 庚申塔」、台座裏面に「万延元」などの陰刻銘があります。これらにより、349基は天明3年(1783)と万延元年(1860)とに奉納されたものであることがわかります。ただし、349基はほとんど同寸同形状のため、五十庚申と三百庚申の区別はつきません。
  庚申塔の寄進の範囲を見ると、市域はもとより、県南の各地から遠く東京、千葉まで及び、当時の庚申信仰がいかに盛んであったかがよく分かります。

◎清泰寺にはこの他にも次の4件の市指定文化財があります。
木造十一面観音立(彫刻) 昭和36年3月31日指定
半鐘(工芸品)      昭和62年3月31日指定
見性院霊廟三具(工芸品) 平成元年3月27日指定
有泉勝長木脾(歴史資料) 昭和51年3月31日指定
  平成14年10月
          宗教法人 清泰寺
          さいたま市教育委員会


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