さぎ山記念公園
「徳川家慶鷺山上覧図」 代山、黒須喜代治氏画 |
<館内に掲示されている大きな絵画>
徳川12代将軍家慶のさぎ山上覧の模様を推測して描いた絵である。家慶の日光社参は、天保13年(1842)である。5月半ばの通行であるので、さぎ山が最もにぎやかな頃である。天保の頃は、さぎ山が、代山村、寺山村、上野田村の3村に広がっており、盛んな時代であった。(展示物の解説板より) |
|
公園は左図のように見沼代用水東縁を挟んで2ヶ所に分かれている。上の公園がさぎ山公園、下は見沼自然公園の名称。上の池は釣りが出来るが、下の池は釣り禁止です。 |
 |
 |
さぎ山記念館(トイレあり)・さぎ山記念公園の池は釣り客が多い |
 |
 |
見沼自然公園の池 蓮や水鳥が多い |
見沼代用水干拓工事の功労者 伊沢弥惣兵衛為永 |
 |
 |
見沼田んぼのダイサギ |
見沼田んぼのアオサギ |
【野田のさぎ山の歴史】
この付近は、かつて”野田のさぎ山”と呼ばれるサギの集団営巣地でした。
サギがここに巣を作るようになったのは、享保年間(1716〜35)徳川八代将軍吉宗の頃です。当時江戸への食糧供給を目的に行われた見沼干拓事業により、沼が浅い水田となりサギの格好なエサ場がにわかに出現したことが原因の一つであるといわれています。以来、紀伊徳川家より御囲鷺として保護されてきました。
この地の主要街道である一般国道122号は昔、日光の御成街道と呼ばれ、徳川将軍が日光参詣の途中、このさぎ山に立ち寄り上覧をした記録も残っていいます。
その後、明治、大正の頃は禁猟区として保護され、昭和13年には野田村鷺繁殖地の名で天然記念物に指定され、続いて昭和27年には特別天然記念物に指定されました。当時の指定面積は1.4haほどで5軒の農家の屋敷林にサギが巣をかけていました(このような状態をさぎ山と呼んだ。)。ここに来たサギは5種類でチュウダイサキ、チュウサギ、コサギ、アマサギ、ゴイサギがいました。
昭和32年頃巣の数六千個を数えていたさぎ山もだんだん減りはじめ、昭和47年には0となり、色々の手当をしたにもかかわらず飛来はあるものの営巣はされず、他の場所に移動してしまいました。いなくなった要因はいろいろあると考えられますが、何といっても水田の減少によりエサが少なくなったことが大きな理由と考えられます。
このような状態からサギを野田に人為的に戻し将来にわたって維持していくことは殆んど不可能な状況となり昭和59年に特別天然記念物及び天然記念物の指定解除となり徳川時代から約250年、指定されて以来77年の歴史を閉じることになったものです。
このさぎ山を記念してその名前が永久に残るよう、また、長く市民に親しまれてきたサギたちを偲ぶ縁として記念館と共に、サギをかたどったモニュメントを配置した公園を設けたものです。(昭和61年5月開園)
(浦和市立さぎ山記念公園のパンフレットより)
【関連情報】
浮間のサギの写真
↑ページの先頭へ